ずっと見ていた庭に、やっと入れた日の話です。
暗い広間で、膝をついて、鼠の穴ほどの細い通路の向こうに、この庭が見えていました。明るい花壇と、涼しい噴水。あのとき、扉には頭さえ通りませんでした。
それから、伸びたり縮んだり、涙の池を泳いだり、家より大きくなったり、蛇と呼ばれたりして、ようやく、ここにいます。
入口の近くに、大きな薔薇の木が立っていました。白い薔薇が咲いています。その木のまわりを、三人の庭師が取り囲んで、せっせと何かをしていました。
ALICE
「あの、教えていただけますか」とアリスは、おずおずと言いました。「どうして、その薔薇を塗っていらっしゃるのですか」
五番と七番は黙って、二番のほうを見ました。二番が、小声で言いました。
「じつはですね、お嬢さん、ここには赤い薔薇の木を植えることになっていたのに、うっかり白いのを植えてしまいまして。もし王妃さまに見つかったら、わたしどもは全員、首をはねられます。ですから、王妃さまがおいでになる前に、なんとか──」
そのとき、庭のむこうを心配そうに見ていた五番が叫びました。
「王妃さまだ!」
三人の庭師は、たちまち地面にひれ伏しました。
この庭で、アリスが最初に知ったのは、そういうことでした。
花の色をまちがえると、首がなくなる。
三人が塗っているのは、花です。木ではありません。この木は、来年もまた白い花を咲かせます。今年の花が散れば、次の蕾も白い。
それでも三人は必死です。木を植えかえるには季節が要りますが、ペンキは、いますぐ塗れるからです。
行列が来ます。
王妃は、アリスの顔を見るなり、こう言います。
名乗ったばかりの子どもに、いきなりです。
ばかばかしい、とアリスは大きな声で言いました。じゅうぶん大きな声だったので、王妃は黙りました。
そのあと、塗りかけの薔薇が見つかって、三人の庭師にも同じ命令が出ます。連れていかれそうになったところを、アリスは大きな植木鉢に隠しました。
兵士たちは、しばらく庭を探しまわって、それから何事もなかったように行列へ戻っていきます。
三人がいなくなったことを、誰も気にしません。
そして、クロッケーが始まります。芝生に球を転がして、門をくぐらせる競技です。
ただし、この庭の道具は、こうなっていました。
球は、生きたハリネズミ。槌は、生きたフラミンゴ。門は、体を折り曲げて手足を地面についた兵士たち。
ALICE
いちばん厄介なのは、フラミンゴの扱いでした。
アリスは、フラミンゴの体を小脇にかかえこんで、脚を垂らし、首をまっすぐ伸ばして、その頭でハリネズミを打とうとします。
ところが、いざ打とうとすると、フラミンゴは首をぐいと曲げて、アリスの顔をまじまじと見上げるのです。あんまり不思議そうな顔をするので、アリスは吹き出してしまいます。
やっと首を押しさげて、もう一度やり直そうとすると、今度は、球にしていたハリネズミが体をほどいて、のそのそと這って逃げていくところでした。
そして、体を折り曲げていた兵士たちは、しょっちゅう立ち上がっては、別の場所へ歩いていってしまうのでした。
アリスは、笑っています。
ついさっき自分の首をはねよと言われ、目の前で三人が連行されかけた庭で、フラミンゴに見上げられて、吹き出している。
この庭で彼女が笑うのは、たぶんここだけです。
フラミンゴは、故障しているわけではありません。ただ、首を曲げて、この子の顔を見たいのです。
ハリネズミも、逃げているというより、丸まっているのに飽きて、ほどけただけ。兵士たちも、門をやめたくなったから、立ち上がって歩いていく。
薔薇も同じでした。花は、赤くなるのを拒んでいるのではありません。ただ、白く咲くだけです。
この庭では、何ひとつ言うことを聞きません。それは、ここにいるものが全部、王妃の都合とは別に生きているからです。
フラミンゴが首を曲げた一瞬だけ、この庭に、王妃のものではない時間が流れました。
試合のあいだじゅう、アリスは落ち着きません。
順番は決まっていません。全員が一斉に打ちはじめ、ハリネズミをめぐって取っ組み合いになります。そのあいだ、王妃は一分おきに、首をはねよ、と叫びつづけている。
アリスは思います。まだ自分の番は来ていないけれど、いつ来るか分からない。
そして、こうも思います。あの人たちは、生きている人を相手に、ずいぶん平気で言うのだわ。
門をつとめていた兵士が次々に連れ去られて、くぐるべき門が一つもなくなります。プレイヤーのほうも、王と王妃とアリスを除いて、全員が連行されました。
ここで起きているのは、規則が守られていない、ということではありません。
規則というものが、まだ発明されていないのです。
これがどういう遊びなのかを、誰も知りません。順番も、勝ち方も、終わり方も、決まっていない。王妃さえ知りません。それでも、全員がやっています。
MEMO
作者のルイス・キャロルは、オックスフォードで数学と論理学を教えていた人でした。規則を扱うのが仕事です。その人が書いたこの庭には、規則がありません。破られているのではなく、まだ作られていない。
そもそも、規則とは何だったのでしょうか。
誰かの気分が、そのまま世界にならないようにするものです。叫んだというだけでは、何も起きないようにするもの。規則があると、命令と結果のあいだに、隙間ができます。
この庭には、それがありません。首をはねよ、と言えば、その場で連れていかれます。あいだに何もない。
ところが、この庭では、誰も処刑されていないのです。
隙間を作っているのは、王です。
王妃が背を向けているあいだに、王はそっと歩きまわって、連行された者たちを、片っ端から赦しています。誰にも言わずに。
この二人には、どちらにも理屈がありません。
王妃が叫ぶ理由は、そのときの機嫌です。王が赦す理由も、べつに説明されていない。相談もしません。王妃は王に断らず、王は王妃に告げない。
それでいて、打ち消し合っています。
叫ぶ声は庭じゅうに聞こえ、赦す手は誰にも見えません。そして、この二人は夫婦です。同じ庭に、同時にいます。
心も、こういうふうに釣り合いを取ります。
どちらか一方に傾いたとき、反対のものが、本人の知らないところで動きだす。意識のほうが厳しくなりすぎれば、どこかでゆるめる働きが起こる。
たとえばヒーラーが純粋になりすぎて、戻ってこられないときに、なぜかジャンクフードを口にしていたりね。
ユングは、それを心の埋め合わせと呼びました。大事なのは、本人が決めてやっているのではないということです。
王妃が背を向けているあいだに、王が勝手に赦してまわるように、それは気づかれないところで、勝手に起こります。
だから人は、たいてい倒れずにいられます。
けれど、この庭を見ていると、そのあとが分かります。
王妃は、今日も叫んでいます。明日も叫ぶでしょう。王は、今日も赦しています。明日も赦すでしょう。
釣り合ってはいるのに、何ひとつ変わりません。
しかも、赦されているせいで、王妃は自分のしたことの結果を、一度も見ずに済んでいます。首をはねよと言っても、誰も死なない。だから、言いつづけられる。
打ち消してくれる人がいるあいだ、人は、極端なままでいられます。
変わるには、二人が口をきくしかありません。王妃が、自分の言葉が誰かに届いていることを知り、王が、隠れるのをやめること。
そうなってはじめて、この庭に規則が生まれます。命令と結果のあいだの隙間を、こっそり誰かが埋めるのではなく、二人で決めた隙間として置くこと。それが規則です。
この庭では、まだ起きていません。
そこへ、空中に、あの猫の頭だけが現れます。
アリスは、ほっとします。話し相手ができた、と思うのです。
そして猫に、こぼします。まったくうまくいかない。みんな一斉に喋るし、規則というものがまるでない。あっても、誰も守らない。
ずっと言いたかったことを、やっと言える相手が現れた、という言い方です。
ところが王が気味悪がって、追い払えと命じます。王妃は、いつものように、首をはねよ、と言います。
猫は、頭しかありません。
首をはねる役の男は言います。体がないものの首は、はねられません。切り離すべき体がないのですから。
王は言います。
王妃は言います。すぐに何とかしなければ、ここにいる全員を処刑する。
三人が言い争っているあいだに、猫の頭は、だんだん薄くなっていきました。
結論が出たときには、もう、どこにもいませんでした。
この庭で、アリスの話を聞いてくれた唯一の相手が、消えたところです。
試合のあと、公爵夫人がアリスと腕を組んで歩きます。
台所で赤ん坊を投げつけてきた、あの人です。今日はずいぶん機嫌がいい。胡椒のない場所では、この人もこんな顔をするのだと分かります。
そして、何かにつけて教訓をつけたがります。どんなことにも教訓はある、見つけさえすればね、というのが口ぐせで、まるで関係のない教訓を次々にひねり出しては、アリスの肩に顎をのせてくる。とがった顎なので、痛いのです。
アリスは、内心こう思っています。教訓のない遊びのほうが、ずっといい、と。
ずっと見ていた庭は、こういう庭でした。
それでも、フラミンゴが首を曲げたとき、彼女は吹き出しました。
- 外側
- 規則の立たない盤面
- 内側
- 思いどおりにならないものと、どう遊ぶか
思いどおりに動かないものだけが、生きている