六時のまま

『不思議の国のアリス』を、夢の側から読んでいきます。ユング心理学と、神話と、カバラを少し。

時間と喧嘩をしたせいで、それきり六時から先へ進めなくなった人たちの話です。

三月うさぎの家の前に、大きな卓が出ていました。大勢ぶんの支度がしてあるのに、三人が片隅にかたまって座っています。三月うさぎと、帽子屋と、そのあいだで眠りこけている眠りねずみ。

アリスが近づくと、三人は口をそろえて叫びます。

席がない、席がない。

卓は、がらがらでした。

狂ったお茶会(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

アリスは、いくらでも空いています、と言って、いちばん端の大きな肘掛け椅子に座ります。すると三月うさぎが、葡萄酒はいかが、とすすめてきます。

卓を見まわしても、紅茶しかありません。葡萄酒などどこにも見あたりません、とアリスは言います。

三月うさぎは答えます。ないんだよ。

それなら、すすめるのは失礼です、とアリスが言うと、今度は帽子屋が口を出します。招かれてもいないのに座るのも失礼だね、と。

会話は、最初から最後まで、この調子です。


そのうち帽子屋が、なぞなぞを出します。

なぜ、カラスは書き物机に似ているか。

アリスは少し考えて、当ててみます、と言います。ここから、いかにもこの物語らしいやりとりが始まります。

ALICE

「つまり、答えがわかると思う、ということかね」と三月うさぎが言いました。

「そのとおりです」とアリスは言いました。

「だったら、思ったとおりに言いたまえ」と三月うさぎは続けました。

「言っています」とアリスは急いで答えました。「少なくとも──言ったとおりに思っています。同じことですけれど」

「同じなものか」と帽子屋が言いました。「それなら、こう言ってもいいことになる。食べるものが見えると、見えるものを食べるは、同じだ、とね」

「それなら、こうも言えるぞ」と三月うさぎ。「もらったものが好きと、好きなものをもらうは同じだ」

「それなら、こうも言えるさ」と眠りねずみが寝言のように言いました。「眠るときに息をすると、息をするときに眠るは同じだ」

「おまえの場合は、たしかに同じだな」と帽子屋は言いました。そこで話は途切れました。

I say what I mean  /  I mean what I say I see what I eat  /  I eat what I see I like what I get  /  I get what I like I breathe when I sleep  /  I sleep when I breathe

もらったものを好きになる人と、好きなものだけをもらう人とでは、生き方がずいぶん違います。息をするときに眠ってしまう者は、眠りねずみだけです。

MEMO

作者は論理学を教えていた人です。逆にしても成り立つとはかぎらない、というのは、教室でくりかえし説いていたことでした。

それを、狂ったお茶会でやっている。


ところで、なぞなぞの答えはどうなったのでしょうか。

アリスは考えます。そして降参して、答えを教えてください、と言います。

帽子屋は答えます。まったく見当もつかない。

三月うさぎも同じです。答えを知らないまま、なぞなぞを出していました。

アリスは、そんなことに時間を無駄にするくらいなら、もっとましな使い道があるでしょう、とあきれます。

すると帽子屋は言うのです。時間というものを、おまえほどよく知っていたら、そんなふうには言えまい、と。

帽子屋(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

この人たちは、時間を、ものではなく、人として扱っています。

仲良くしていれば、時計に頼みごとができる。朝の九時、授業が始まる時刻に、ひとこと囁くだけでいい。時計はぐるりとまわって、あっという間に一時半、昼食の時刻になる。

けれど、帽子屋はもうそれができません。

去年の三月、王妃の音楽会で歌を歌ったとき、王妃が叫んだのです。この男は時間を殺している、と。

それ以来、時間は、帽子屋の頼みを何ひとつ聞いてくれなくなりました。

そして、いまはずっと六時のままです。


六時は、お茶の時刻です。

だから、この庭では永遠にお茶の時間で、卓の上には次から次へと茶器が出しっぱなしになっています。片づける暇がありません。時間が進まないので、洗い物をする「あいだ」というものが、そもそも来ないのです。

ではどうしているのか。アリスが尋ねると、帽子屋はこう答えます。

ずれていくのさ。

汚れた席を離れて、隣のきれいな席へ移る。また汚れたら、また隣へ。三人はぐるぐると卓をまわりつづけています。

では、ひとまわりして最初の席に戻ってきたら、どうするのですか。

アリスがそう訊いたとたん、帽子屋は話題を変えてしまいます。


この庭では、何ひとつ新しくなりません。

三人は、じっとしているわけではないのです。むしろ、休みなく動いています。喋りつづけ、席を移りつづけ、なぞなぞを出しつづけている。

それでも、進んでいない。

洗われない茶碗が増えていくだけで、卓はいつまでも同じ卓のままです。

時間と喧嘩をしてしまうと、こうなるのだと思います。

待てば変わる、ということが、なくなる。しばらく置いておけば落ち着くとか、そのうち忘れるとか、来年になれば違って見えるとか、そういうものが全部、使えなくなる。

ほんとうにあるのは、いまこの瞬間だけです。過去は記憶で、未来はまだどこにもありません。そう言われれば、そうだろうと思います。

それでも、私たちは時間という幻に、ずいぶん助けられています。

いまが苦しくても、時間があると思えば、いまのままではないと思える。過ぎたことも、時間があると思えば、遠ざけることができる。時間という幻は、いまと、いまでないものとのあいだに、隙間を作ってくれます。

この庭の三人は、その隙間を失いました。

時が味方でない人は、同じところをまわるしかありません。

MEMO

日本の浦島太郎は、竜宮から帰ってきたら何百年も経っていました。アイルランドの古い話にも、妖精の丘で一晩だけ踊って戻ったら、知る人が誰もいなくなっていた、というものがあります。あちらは、外の時間が進みすぎてしまう話です。


眠りねずみが、話をはじめます。

むかし三人姉妹がいて、井戸の底に住んでいた、という話です。糖蜜の井戸です。

その井戸の底で、姉妹は絵を習っていた、と眠りねずみは言います。何を描いていたのか、とアリスが訊くと、Mではじまるものを何でも、という答えが返ってきます。

ねずみ捕り。月。記憶。たくさんということ。

そのうち、眠りねずみはまた眠りこんでしまいます。

アリスは、お茶をもう少しいかが、とすすめられます。まだ一杯もいただいていないので、もう少しというわけには、と答えると、帽子屋が言います。

それなら、もっと少なくは飲めまい。何もないより多く飲むのは、たやすいことだ。

アリスは、とうとう腹を立てて、立ち上がります。

誰も引き止めませんでした。二人は、眠りねずみをティーポットに押しこもうとしているところでした。

眠りねずみをティーポットに押しこむ二人(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

森を歩きだしたアリスは、幹に扉のついた木を見つけます。

入ってみると、そこは、あの長い広間でした。天井からランプが吊り下がり、まわりに扉が並んでいる、いちばん最初の場所です。

けれど、今度の彼女はちがいました。

まず、ガラスの卓から小さな金の鍵を取ります。それから、きのこをかじって、三十センチほどの背丈になります。

そして、小さな扉を開けて、庭へ入っていきました。

外側
止まった時間、空転する論理
内側
動いているのに、更新されない

時と喧嘩した者には、待つという手が残らない

つぎの話