消えていく猫

『不思議の国のアリス』を、夢の側から読んでいきます。ユング心理学と、神話と、カバラを少し。

体が全部消えたあとも、笑いだけが空中に残っていた、という話です。

豚を森へ見送ったアリスが顔を上げると、木の枝の上に、さっきの猫が座っていました。台所の炉端で、耳から耳まで笑っていた、あの猫です。

木の枝のチェシャ猫(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

爪も歯もずいぶん立派なので、アリスは丁寧に話しかけます。そして、この物語ではじめて、まともに道を尋ねます。

ALICE

「ここから、どちらへ行けばいいのか、教えていただけますか」

「それは、どこへ行きたいかによるね」と猫は言いました。

「どこでも、あまり気にしません」とアリスは言いました。

「だったら、どちらへ行こうと同じことだ」

「どこかには着きたいのですけれど」とアリスは言い足しました。

「ああ、それなら大丈夫」と猫は言いました。「じゅうぶん長く歩けば、かならずどこかには着く」

反論のしようがありません。

このあたりにはどんな人が住んでいるのか、とアリスが尋ねると、猫は前足で順に示します。あっちには帽子屋。そっちには三月うさぎ。

好きなほうを訪ねればいい。どちらも狂っているから。

狂った人たちのところへは行きたくありません、とアリスが言うと、猫は答えます。それは仕方がない。ここでは、みんな狂っている。わたしも狂っているし、あなたも狂っている。

どうして、わたしが狂っているとわかるのですか、とアリスは訊きます。

猫の答えは、こうです。狂っていなければ、こんなところへ来はしない。


そのあと、猫は自分が狂っていることを証明してみせます。

犬は狂っていない。それは認めるね、と猫は言います。アリスは、たぶんそうでしょう、と答えます。

では、と猫は続けます。犬は、怒ったときにうなり、嬉しいときに尻尾を振る。ところが、わたしは嬉しいときにうなり、怒ったときに尻尾を振る。だから、わたしは狂っている。

前の話で、鳩がアリスを蛇にしたときと、そっくり同じ組み立てです。ひとつの特徴を目印にして、そこから正体を決める。

ちがうのは、猫がその推論を、自分に向けて使っていることです。

そして、こう言われたアリスは、まっとうな返事をします。それはうなっているのではなくて、喉を鳴らしているのだと思います、と。

猫は少しも動じません。好きなように呼べばいい、と言うだけです。


ところで、と猫が尋ねます。あの赤ん坊はどうなった。

豚になりました、とアリスは答えます。

そうだろうと思った、と猫は言って、消えます。

そしてしばらくすると、また現れて、こう訊くのです。

pig fig

豚と言ったかね、それとも、いちじくと。

豚です、とアリスは答えます。それから、あまり急に出たり消えたりしないでほしい、目がまわるから、と頼みます。

猫は聞き入れます。そして、ゆっくり消えはじめました。


尻尾の先から、少しずつ。

耳が消え、体が消え、足が消えて、最後に、笑いだけが枝の上に残りました。

ほかの部分がすっかり消えてしまってからも、笑いは、しばらくそこにありました。

枝の上に残った笑い(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865
“Well! I’ve often seen a cat without a grin,” thought Alice; “but a grin without a cat! It’s the most curious thing I ever saw in my life!” 笑っていない猫なら、いくらでも見たことがある。でも、猫のいない笑いなんて。生まれてはじめて見たわ。

ふつう、笑いは顔の上にあります。顔がなければ、笑いも消えるはずです。

ところがここでは、順番が逆になっています。器が先に消えて、そこに宿っていたものだけが残った。

カバラに、これによく似た考え方があります。

はじめに、すべてを満たしていた光がありました。その光がいったん退いて、空いた場所ができ、そこに世界が置かれた、という話です。

そのとき、光は跡形もなく消えたのではありません。退いたあとの場所に、うすい刻印だけが残ったとされています。何かがそこにあった、という痕跡だけが。

枝の上の笑いは、その絵として、これ以上ないほど正確です。

実体はもう、そこにいません。それでも、何かがあったということだけが、空中に残っている。


誰かがいなくなったあと、その人のいた場所の空気が、しばらく変わったままでいることがあります。

部屋の椅子の向きとか、よく使っていた湯呑みの位置とか、そういうものではなくて、もっと形のないものです。

本人はもういません。それでも、いたということだけが、まだそこにある。

アリスは、それを見て、生まれてはじめて見た、と言いました。

けれど、たぶん、私たちはわりとよく見ています。猫のいない笑いのほうが、この世にはたくさんあります。


笑いも消えたあと、アリスは歩きだします。

猫が前足で示したほうへ。三月うさぎの家です。

近づいてみると、煙突がうさぎの耳の形をしていて、屋根が毛皮で葺いてありました。

庭には卓が出ていて、お茶の支度がしてあります。

外側
光が退いたあとに残る刻印
内側
かたちを失っても、残るもの

笑っていない猫なら、いくらでも見た

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