泣きやまない赤ん坊を助け出したら、腕のなかで豚になった、という話です。
森を歩いていたアリスは、小さな家の前で、奇妙なものを見かけます。魚の顔をした従僕が、蛙の顔をした従僕に、大きな封筒を渡しているところでした。王妃から公爵夫人への、クロッケーの招待状だそうです。
アリスが、なかへ入りたいのだけれど、と声をかけると、蛙の従僕はまじめな顔で言います。そもそも、あなたが入ることになっているのかどうか。それが最初の問題です、と。
話が進みそうにないので、アリスは自分で扉を開けました。
ALICE
扉はまっすぐ大きな台所に通じていて、なかは煙でいっぱいでした。公爵夫人は真ん中の三本脚の腰かけに座って、赤ん坊をあやしています。料理女は火にかがみこんで、大鍋をかきまわしていました。
スープに胡椒が入りすぎているにちがいない、とアリスは思いました。
じっさい、空気じゅうが胡椒でした。公爵夫人でさえ、ときどきくしゃみをします。赤ん坊のほうは、泣くかくしゃみをするか、どちらかを絶え間なく続けていました。
台所でくしゃみをしていないのは、料理女と、炉端に寝そべった大きな猫だけです。その猫は、耳から耳まで届くほど、にやにや笑っていました。
「あの、教えていただけますか」とアリスは、いくらか遠慮がちに言いました。「どうして、おたくの猫はあんなふうに笑っているのですか」
公爵夫人の答えは、こうです。
説明になっていません。それでも、こう言われると、なぜか納得しそうになります。
MEMO
チェシャは、イングランド北西部の州の名前です。にやにや笑うチェシャ猫、という言い回しは、キャロルの発明ではなく、当時すでにあった言い方でした。由来は諸説あって、はっきりしません。
この猫のことは、次の話で書きます。ここでは、笑ったまま、隅に寝そべらせておきます。
この台所は、ひどい部屋です。
料理女は、鍋をかきまわしながら、手当たりしだいに物を投げはじめます。火かき棒、鍋、皿。公爵夫人と赤ん坊のほうへ、次々と飛んでいく。
公爵夫人は、まったく気にしません。当たっても知らん顔で、赤ん坊を乱暴に揺すりつづけます。そして、こんな子守唄を歌います。
坊やには手荒に口をきき、くしゃみをしたら叩いておやり。あの子はわざとやっているのだ、こちらが困ると知っているから。
くしゃみが止まらないのは、胡椒のせいです。
誰の目にも見えています。アリスにさえ、入ったとたんに分かりました。それでも、この部屋の誰ひとり、胡椒を減らそうとしません。
かわりに公爵夫人は、赤ん坊が自分を困らせるためにやっていると考えています。
空気が濁っている部屋では、たいてい、こういうことが起きます。全員が苛立っていて、原因はそこらじゅうに漂っているのに、誰もそれを見ません。かわりに、目の前の誰かのせいにする。
そして、原因を減らすかわりに、声を荒らげる。
あの台所に必要だったのは、しつけでも我慢でもなく、換気と、塩と、たぶん、全員がいちど外に出ることでした。
公爵夫人は、クロッケーの支度をしなければならないと言って、赤ん坊をアリスに投げつけて、出ていってしまいます。
投げられた赤ん坊を、アリスは受けとめます。妙なかたちの子で、腕も脚もあらゆる方向に突き出していました。
そして彼女は、その子を抱いて、外へ出ます。
連れて出なければ、この子はきっと死んでしまう、とアリスは思います。置いていくのは人殺しみたいなものだ、と。
外の空気に出たとたん、赤ん坊は泣きやみます。
そのかわりに、ぶうぶうと鼻を鳴らしはじめました。
アリスは顔をのぞきこみます。鼻が上を向いていて、どう見ても、人の鼻というより、豚の鼻でした。目も、赤ん坊にしては小さすぎる。
それでも彼女は、しばらく歩きつづけます。泣いているのだと思って、あやしながら。
そして、もう間違えようがないところまで来たとき、アリスは立ち止まりました。
MEMO
取り替え子、という古い言い伝えが、北ヨーロッパのあちこちにあります。妖精が本物の子どもを連れ去って、かわりに自分たちの子を置いていく、というものです。見分け方のひとつは、外へ連れ出すことでした。家の中では分からないものが、戸口を出たとたんに現れる、と。
ここが、この物語のなかで、ちょっと特別な場面だと思います。
アリスは、慌てません。悲鳴もあげません。腕のなかのものが豚だと分かると、静かに地面に降ろします。
豚はとことこと森のなかへ歩いていって、見えなくなります。
そして彼女は、こう思うのです。あのまま人の子として育っていたら、ひどく醜い子になっただろう。でも、豚としては、なかなか立派なほうだ、と。
惜しんでいません。腹も立てていません。連れ出したことを後悔してもいない。
あの煙だらけの部屋にいたままなら、この子は泣きつづける赤ん坊のままでした。外へ出て、はじめて、それが何だったのかが分かった。
そして分かったところで、アリスは手を放します。降ろすところまでが、連れ出すということでした。
この長い一日で、彼女が自分から何かを手放すのは、たぶんここだけです。
豚を見送って、アリスがふと顔を上げると、数ヤード先の木の枝に、あの猫が座っていました。
耳から耳まで、にやにや笑って。
- 外側
- 濁った場では、すべてが濁って見える
- 内側
- 苛立ちの出どころを、取り違える
煙の外へ出るまで、それが何なのかは分からない