家より大きくなる

『不思議の国のアリス』を、夢の側から読んでいきます。ユング心理学と、神話と、カバラを少し。

部屋いっぱいになったアリス(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

ALICE

白い兎が、また戻ってきました。何かを探しながら、ぶつぶつ言っています。手袋はどこだ、扇はどこだ、公爵夫人に殺される、と。

アリスを見つけると、兎は怒った声で言いました。

「メアリー・アン、こんなところで何をしている。すぐに家へ走って、手袋と扇を持ってきなさい。さあ、早く」

アリスはあんまり驚いたので、人違いだと言うひまもなく、兎の指さすほうへ走りだしていました。

「兎のお使いをするなんて、へんな話だわ」と、走りながらアリスは思いました。

こぎれいな小さな家に着くと、寝室に上がって、扇と手袋を見つけました。そして、鏡のそばの小さな卓に、一本の小瓶があるのに気づきます。

今度は「わたしを飲んで」とは書いてありません。それでもアリスは栓を抜いて、口へ運びました。何か面白いことが起きるにきまっている、と思ったからです。

そして、半分も飲まないうちに、頭が天井にぶつかりました。

あわてて瓶を置きます。もう遅すぎました。伸びつづけて、床にひざまずき、それでも足りずに、片腕を窓の外へ出し、片足を煙突へ突っこんで、やっと止まりました。

「もう、これ以上は伸びられない」とアリスは言いました。「どうやって外へ出たらいいのかしら」

メアリー・アン

この章は、名前を間違えられるところから始まります。

兎は、アリスを女中だと思いこみます。そして、こんなところで油を売るな、走って取ってこい、と怒鳴りつける。

ここでアリスがすることを、よく見てください。

彼女は、人違いですとは言いません。言うひまもなかった、と書かれています。気がついたときには、もう走っている。

そして走りながら、こう思うのです。兎のお使いをするなんて、へんな話だわ、と。

おかしいと思っている。それでも、走っている。

人は、違う名前で呼ばれても、しばらくその役を続けられます。むしろ、はっきり呼ばれてしまうと、体のほうが先に動く。誰かの役を割り当てられたとき、それを断るには、一拍の間が要ります。その一拍が、この場面にはありませんでした。

土手の上で、アリスが着ていた顔の話をしました。娘であること、妹であること、行儀よくしていること。あれは自分で着ていたものです。

ここでは、着せられています。しかも、走りながら文句を言いつつ、着たままでいる。


ラベルのない瓶

広間で小瓶を手にしたとき、アリスは慎重でした。

「毒」と書いてないかどうか、よくよく確かめた。物語の書き手も、そのことを一段落かけて書いていました。

ところが、この寝室の瓶には、何も書かれていません。「わたしを飲んで」ともありません。

それでもアリスは飲みます。理由も書かれています。何か面白いことが起きるにきまっているから。

用心が消えたのではありません。用心の必要が、わからなくなっている。この世界では何かを飲めば何かが起きる、という規則だけを覚えて、それが自分にどう働くかを考えなくなっている。

そして今度は、半分も飲まないうちに天井に届きます。


器のほうが、先に限界に来る

アリスは、悪いことをしていません。

大きくなりすぎたのが失敗だった、というより、家が小さすぎたのです。

広間には、天井までの高さがありました。九フィートになっても、泣くだけの余裕があった。けれどこの家は、兎の家です。人ひとりのために建てられていません。

カバラに、器が割れる、という話があります。

はじめに世界が造られたとき、上から降りてきた光を受けとめるために、いくつもの器が置かれました。ところが光が強すぎて、器のほうが持ちこたえられず、砕けてしまった。世界のあちこちに散らばっている壊れた欠片を、ひとつずつ拾い集めることが、人の仕事なのだ、と。

大事なのは、光が悪かったのでも、器が粗末だったのでもない、というところです。釣り合わなかった。それだけのことで、器は割れる。

片腕が窓から出て、片足が煙突に入っている姿は、まさにその一歩手前です。まだ割れてはいない。けれど、もう収まっていない。


これ以上、大きくなれない

閉じこめられたアリスが、ひとりごとを言います。

at least there’s no room to grow up any more here. 少なくとも、ここにはもう、大きくなる場所がないもの。

その少し前に、彼女はこんなことを考えています。大きくなったら自分のことを本に書こう、でも、わたしはもう大きくなってしまった、と。

英語の grow up には、背が伸びるという意味と、大人になるという意味があります。

だから、この一行はこうも読めます。ここにはもう、大人になる余地がない。

伸びきってしまった。もう先がない。それは達成のようでいて、行き止まりでもあります。

体が大きくなることには、必ず終わりがあります。けれど大人になることのほうには、本当は終わりがない。それがここで、同じ一語のなかで重なってしまう。

そして、いちばん切ないのはそのあとです。

アリスは、こんなふうに続けます。だったら、わたしはいつまでも子どものままなのかしら、と。


外からは、怪物に見える

そのあいだ、家の外では騒ぎが起きています。

兎は自分の家に入れません。窓から出ている腕を見て、みんなで相談をはじめます。

窓から出た腕に驚く白い兎(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

とかげのビルが、屋根から煙突を伝って降りてくることになります。可哀想なビルは、誰にも逆らえずに引き受けさせられ、煙突の中でアリスの足に蹴りあげられて、空へ飛んでいきます。

There goes Bill! ビルが飛んでいくぞ。
煙突から飛び出すとかげのビル(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

アリスは、誰も傷つけようとしていません。動くこともできずに、そこにいるだけです。

それでも外から見れば、彼女は家を占領している、正体の知れない大きなものです。

大きくなっているとき、人は自分の輪郭が見えません。どこまでが自分で、どこから先が人の場所なのか、内側からはわからない。収まっていない、ということに気づくのは、たいてい、外にいる人のほうが先です。


投げつけられたものが、食べものになる

やがて外の一同は、小石を投げこみはじめます。

窓から次々に飛んでくる小石を、アリスは見ています。すると、床に落ちた小石が、小さな菓子に変わっていくのに気づきます。

彼女はそのひとつを食べます。そして、たちまち縮みはじめる。

助けは、思いがけない形で来ました。投げつけられたものが、そのまま食べものになる。

縮んだアリスは、戸口から走り出て、森へ逃げこみます。


巨大な子犬

森でアリスが最初に出会うのは、途方もなく大きな子犬です。

巨大な子犬とアリス(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

まんまるな目で見おろされ、前足をそっと出されて、アリスはあざみの茂みに隠れます。

この子犬は、何ひとつ悪いことをしていません。ただ、遊びたがっているだけです。棒きれを差し出すと、嬉しそうに跳びついてくる。

けれど、いまのアリスの背丈では、じゃれつかれれば踏みつぶされます。

ついさっきまで、彼女のほうが家より大きなものでした。窓から出た腕ひとつで、外の一同を怯えさせていた。

それが、同じ日のうちに、こうなっています。

怖いかどうかは、相手の性質ではなく、寸法で決まる。子犬は最初から子犬でした。変わったのは、こちらの背丈だけです。

アリスは息を切らして逃げながら、こう思います。あの子犬に芸を教えてあげたかった、わたしがちょうどいい大きさでさえあれば、と。

そして、その「ちょうどいい大きさ」を、まだ誰も教えてくれていません。


この森で、彼女はきのこの上に座った芋虫に出会います。そして、たったひとつの質問をされることになります。

外側
器が、光を容れきれない
内側
大きくなった自分が、行き場をなくす

器のほうが、先に限界に来る

つぎの話