ALICE
岸にあがった一同は、ずぶ濡れでした。アリスと、ねずみと、あひると、ドードーと、おうむと、わしの子と、そのほか奇妙な生きものたち。
いちばんの問題は、どうやって体を乾かすかでした。
ねずみが言いました。「わたしが知っているかぎり、いちばん乾いたものをお聞かせしましょう」。そして、征服王ウィリアムの話をはじめました。ローマ教皇に支持され、イングランドの民は指導者を求めており、当時は国を奪われることにも征服されることにも慣れておりまして──と、歴史の教科書がそのまま続きます。
「どうです」と、しばらくしてねずみが言いました。「乾いてきましたか」
「あいかわらず、びしょ濡れです」とアリスは答えました。「ちっとも乾かないみたい」
そこでドードーが言いました。「こうなったら、コーカス競走をやるのがいちばんだ」
ドードーはまず、走る道筋を決めました。おおよそ円のかたちです。かたちはどうでもいい、とドードーは言いました。それから一同を、その線のあちこちに立たせました。
「いちについて、よーい、どん」はありません。みんな好きなときに走りはじめて、好きなときにやめるので、いつ競走が終わったのか、誰にもわかりません。
三十分ほど走って、すっかり乾いたころ、ドードーが突然叫びました。「競走は終わり!」
みんながドードーのまわりに集まって、息を切らしながら尋ねました。「それで、勝ったのは誰?」
ドードーは、長いこと考えこんでから、こう言いました。
「全員が勝った。そして全員が賞をもらわなければならない」
乾いた話では、乾かない
ねずみのやり方は、理屈としては通っています。
濡れているのだから、乾いたものが要る。自分が知っているいちばん乾いたものは、歴史の教科書のあの一節だ。だから、それを聞かせよう。
英語では、退屈な話のことを、乾いた話といいます。ねずみはその言葉を、そのまま受け取りました。
もちろん、誰も乾きません。
言葉の上でつながっているものが、体の上でもつながっているとはかぎらない。正しい理屈が、正しい場所に働くとはかぎらない。
それでも、この失敗が可笑しいのは、ねずみが本気だからです。まじめに、親切に、いちばん乾いたものを差し出している。
合図も、決勝線もない
ドードーの競走の規則を、もう一度並べてみます。
道筋は、おおよその円。かたちはどうでもいい。
出発点は、ひとりひとり違う。線のあちこちに、ばらばらに立たされます。
始まりの合図はない。走りたくなったときが、始まりです。
終わりの線もない。やめたくなったときが、終わりです。
誰と競っているのかも、はっきりしません。円のうえを、めいめいが自分のところから走っている。前を走っているように見えて、実は同じところをまわっているだけかもしれない。
そして三十分後、全員が乾いています。目的は、はじめから達せられています。乾くことでした。誰かに勝つことではありませんでした。
円をまわる
まっすぐな道と、円い道では、進むということの意味が変わります。
まっすぐな道には、出発点と到達点があります。どこまで来たかがわかり、誰が先を行っているかもわかる。
円には、それがありません。まわりつづけても、どこにも着かない。かわりに、同じところを何度も通ります。
古い図のなかで、円はよく、完成したものの姿として描かれてきました。ユングは、患者たちが描く円い図形を、たくさん集めています。心がひどく揺れているとき、人はなぜか円を描く。中心のある、閉じたかたちを。
まわることは、止まっていることではありません。どこにも行かない運動というものが、たしかにあります。
そして、円をまわっているあいだに、濡れていた者は乾いていきます。
全員が勝った
MEMO
コーカスというのは、政治の集まりのことです。ドードーの宣言は、選挙の茶番をからかったものだと、よく言われます。
けれど、この言葉には、からかい以上のものが残ります。
勝者を決めない、というのは、優しさのように聞こえます。けれど本当は、もっと素っ気ないことを言っている。この競走には、はじめから順位というものが存在しなかった。
順位がないところで、誰が先かを気にしていた三十分。それでも、その三十分で、みんな乾いた。
指ぬき
賞を出すことになって、困ったのはアリスです。
ポケットを探ると、砂糖菓子の箱が出てきました。ちょうど人数分ありました。それを配ると、みんな賞をもらいます。
ところが、アリスの分がありません。
ドードーが尋ねます。ほかに何か持っていないか、と。アリスはポケットからもうひとつ、指ぬきを取り出します。裁縫のとき、指にはめる、あの小さな金具です。
ドードーはそれを受け取ると、一同を集め、うやうやしく、アリスに手渡します。
そして全員が、その短い演説に拍手します。アリスも、ずいぶんばかげたことだと思いながら、みんながあまりに真剣なので、笑わずに受け取ります。
何ひとつ増えていません。
アリスのポケットから出たものが、アリスの手に戻っただけです。物としては、行って、帰ってきただけ。
変わったのは、あいだに儀式が挟まったことです。全員が輪になり、うやうやしく差し出され、受け取られ、拍手された。それだけで、同じ指ぬきが、賞になっている。
儀式というものは、たぶん、ずっとこういうものでした。何も増やしません。すでにそこにあったものを、受け取り直させるだけです。
そして指ぬきは、指にはめる、いちばん小さな器です。中に入れられるものは、ほとんど何もありません。
空っぽの、小さな器を、彼女はうやうやしく受け取ります。
長い、悲しいお話
そのあと、ねずみが身の上話をはじめます。
アリスはねずみの尻尾を見おろして、こう言います。
ねずみが語りだしても、アリスは尻尾のことを考えつづけています。だから、彼女に聞こえてくる話は、尻尾のかたちに曲がりくねって、だんだん細くなっていきます。
キャロルは、この詩を本当に尻尾のかたちに組んで印刷させました。
文字が、頁のうえで細く長く垂れていきます。物語のかたちが、耳のかたちに合わせて曲がっている。
話の途中で、ねずみが言います。わたしはそんなことは言っていない、と。
音は、まったく同じです。
ねずみは怒って、行ってしまいます。
ここまでで、アリスは三度、同じ失敗をしています。猫の話をして、犬の話をして、そして今度は、聞き違えたまま親切にした。
悪気はありません。むしろ、いつも親切です。それでも、相手のいる場所に立てていない。
- 外側
- 円環、勝敗のない運動
- 内側
- 自分の場所から始め、自分の時に終える
指ぬきは、いちばん小さな器