涙の池

『不思議の国のアリス』を、夢の側から読んでいきます。ユング心理学と、神話と、カバラを少し。

涙の池を泳ぐアリス(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

ALICE

アリスは泣きつづけました。何ガロンもの涙がこぼれ落ちて、広間の半分ほどに、深さ四インチの池ができるほどでした。

そこへ、白い兎が戻ってきました。片手に白い子山羊革の手袋、もう片方の手に大きな扇を持って、ひどく急いでいます。アリスが声をかけると、兎は跳びあがるほど驚いて、手袋と扇を落として、暗がりへ逃げていきました。

アリスは扇を拾って、暑かったので、話しながらあおぎつづけました。すると、また体が縮んでいきます。あわてて扇を放しました。もう少しで、すっかり消えてしまうところでした。

「あぶなかった」とアリスは言いました。そして、あたりを見まわして──足をすべらせ、つぎの瞬間には、首まで塩水につかっていました。

はじめは海に落ちたのだと思いました。けれども、すぐに気づきます。これは、自分が九フィートだったときに流した涙の池なのでした。

「あんなに泣かなければよかった」とアリスは言いました。「自分の涙で溺れるなんて」

そのとき、少し離れたところで水音がしました。近づいてみると、それは一匹のねずみでした。

アリスは、ねずみに話しかけてみました。ねずみに正しい話しかけ方があるのかどうか、知らなかったのですが、兄のラテン語の文法書に「ねずみが──ねずみの──ねずみに──ねずみを──ねずみよ!」と並んでいたのを思い出したのです。

返事がありません。フランス語かもしれない、とアリスは考えました。それで、フランス語の教科書のいちばん最初の文を、口に出してみました。

「わたしの猫はどこですか」

ねずみは水から跳びあがり、体じゅうを震わせました。

大きかったときに流したものに、小さくなってから溺れる

この場面の仕掛けは、寸法にあります。

涙を流したのは、九フィートのアリスでした。だから池は、その体に見合った量になります。何ガロンも、広間の半分ほど。

そして溺れかけるのは、十インチのアリスです。

同じ人の、同じ涙です。ただ、流したときと、そこへ落ちたときとで、寸法が違っている。

大きな気持ちでいたときに泣いたものが、小さくなった自分の背丈をこえて、そこに残っている。泣いたものは、乾かずに、待っている。

ずいぶん前に泣いたことを、ずっとあとになって思い出して、いまの自分にはあまりに大きすぎる、と感じることがあります。あのときの自分はもっと大きくて、それを流せるだけの背丈があった。いまの自分では、足がつかない。


下の水

創世記のはじめのほうで、神は水を分けます。上の水と、下の水に。

古い書き手たちは、この分かれた水をずっと考えつづけました。上の水は、まだかたちを持たない光に近いもの。下の水は、地に落ちて、集まって、海になったもの。

そして下の水は、しばしば、悲しみの水として読まれます。塩からい水。分けられたことを憶えている水。

アリスが落ちたのは、塩水でした。彼女は最初、海だと思います。自分の涙だとは気づかない。

自分の悲しみは、たいてい、はじめは自分のものに見えません。世界のほうが暗いのだ、と思う。それが自分の流したものだとわかるのは、そこにしばらく浮かんでからです。


感情は、自分のものなのに、自分より大きい

心のなかで起きることのうち、いちばん扱いにくいのが、この性質です。

怒りも、悲しみも、たしかに自分から出てきます。誰かに入れられたものではない。それなのに、出てきたとたんに、自分より大きくなって、こちらを飲みこもうとする。

ユングは、こういう状態を、意識が感情に押し流されてしまうこととして書きました。感情を持っているつもりが、感情に持たれている。

抜ける道は、泣かないことではありません。アリスも、泣いたこと自体を悔やんではいますが、物語は彼女を責めません。

彼女がしたのは、そこで泳ぐことでした。溺れず、干上がらせようともせず、ただ、しばらく浮かんでいる。

そして、そこで最初の生きものに出会います。

ねずみと並んで泳ぐアリス(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

わたしの猫はどこですか

ねずみに話しかけるとき、アリスは持っているものを全部使います。

まず、兄のラテン語の文法書を思い出します。

a mouse—of a mouse—to a mouse—a mouse—O mouse! ねずみが、ねずみの、ねずみに、ねずみを、ねずみよ。

名詞の変化を暗記させるための、あの並びです。呼びかけるのだから、いちばん最後の形だろう、と彼女は考えます。

文法としては、正しい。相手が生きているという一点だけが、抜けています。

返事がないので、次はフランス語かもしれないと思い、教科書の最初の文を口にします。

Où est ma chatte? わたしの猫はどこですか。

語学の教科書というものは、たいてい、こういう文から始まります。役に立つかどうかは考えられていない。ただ、いちばん最初に憶えた文だから、いちばん最初に出てくる。

そして、水に浮かぶねずみに向かって、よりによって、猫の居場所を尋ねてしまう。

知識はありました。順序も踏んでいます。それでも、いちばん言ってはいけないことを言った。

用意してきた言葉が、目の前の相手にはまるで届かない。しかも、傷つけたことに、しばらく気づかない。アリスはこのあと、同じ失敗をもう一度くりかえします。今度は犬の話をして、また嫌われる。

教科書に載っていないことのほうが、この世界にはずっと多いのです。


四かける五は、十二

池に落ちる少し前、アリスは自分が誰なのかを確かめようとします。

いちばん確かなものから試すことにして、彼女は掛け算をはじめます。

4 × 5 = 12 4 × 6 = 13 4 × 7 = ?

そしてアリスは言います。こんな調子では、いつまでたっても二十にはたどりつけない、と。

まちがっている、と言ってしまえばそれまでです。

MEMO

作者は数学を教えていた人です。この掛け算は、書き損じではありません。

ためしに、数の書き方のほうを変えてみます。

わたしたちは十でひと桁くりあがる書き方に慣れていますが、そうでない書き方もあります。時計は十二で、分は六十でくりあがる。

十八でくりあがる書き方をすると、四かける五、つまり二十は、一と二と書かれます。二十一でくりあがる書き方をすると、四かける六、つまり二十四は、一と三になります。

くりあがりの数を、三つずつ上げていく。すると、答えは十二、十三、十四、十五……と、きれいに一ずつ増えていきます。

そして、この足並みでは、けっして二十には届きません。

まちがえているのではなく、規則が一つずつずれていく。ずれかたのほうに規則がある。

アリスは、たしかなものにつかまろうとして掛け算を選びました。いちばんたしかなはずのものが、いちばん静かに狂っています。


扇のこと

ひとつだけ、書き落とせない小道具があります。

白い兎が落としていった、大きな扇です。

アリスはそれを拾い、暑かったので、あおぎながら喋りつづけます。すると、また縮みはじめる。あと少し放すのが遅れたら、すっかり消えていました。

あおぐと縮む、というのは、理屈のうえでは筋が通っています。熱すれば膨らみ、冷やせば縮む。物のふるまいとしては正しい。

けれど、この場面が可笑しくて、少し怖いのは、アリスが自分で自分をあおいでいることです。

誰にやらされたのでもありません。手の中にあったから、暑かったから、話しながら、なんとなくあおいでいた。そのあいだじゅう、自分が消えかけていたことに気づいていない。

気づいて手を放したのは、ぎりぎりでした。

外側
水の領域
内側
自分の感情に溺れる

流した涙は、どこにも行かずに、そこで待っている

つぎの話