ALICE
アリスは小瓶を手に取りました。けれども、すぐには飲みません。まず、瓶に「毒」と書いてないかどうか、よくよく確かめました。友だちが焼けたり、獣に食べられたりする話をいくつも読んできて、そういう目にあうのはたいてい、簡単な決まりを忘れた子だと知っていたからです。「毒」と書かれた瓶から飲みすぎれば、遅かれ早かれ、体にさわる。
その瓶には「毒」とは書いてありませんでした。それでアリスは思いきって飲んでみました。とてもおいしい味でした。
「なんて変な気持ち」とアリスは言いました。「望遠鏡みたいに縮んでいくみたい」
そのとおりでした。いまや背丈は十インチ。あの小さな扉を通って、美しい庭へ行くのに、ちょうどよい大きさです。
ところが扉のところまで行ってみると、鍵を忘れてきたことに気づきました。取りに戻ってみても、ガラスの卓は高すぎて、とても手が届きません。鍵は、ガラス越しにはっきり見えているのに。
そのうち、卓の下に小さなガラスの箱を見つけました。なかには小さな菓子が入っていて、上に「わたしを食べて」と、干しぶどうで美しく書かれていました。
アリスは食べました。
「へんてこりんが、へんてこりんきわまる」とアリスは叫びました。あんまり驚いたので、しばらく正しい言葉づかいを忘れてしまったのです。
いまや背丈は九フィート以上。頭は広間の天井にぶつかりそうです。そして、あの小さな扉を見おろして、アリスは泣きだしました。
片方だけでは、どうにもならない
ここで起きていることを、並べてみます。
小さくなりました。扉を通れる大きさになりました。けれど鍵に手が届きません。
大きくなりました。鍵には届きます。けれど扉を通れません。
どちらも失敗ではありません。どちらも半分だけ、正しいのです。そして半分ずつ正しいものを交互にくりかえしても、いつまでも庭には行けない。
望みが叶わないのは、力が足りないからだと思われがちです。もっと大きくなればいい、もっと縮めばいい、と。けれどこの場面が言っているのは、そういうことではありません。足りないのではなく、片方に寄りすぎている。
ふくらむ力と、縮める力
カバラの生命の樹は、三本の柱で立っています。
右の柱は、ひろがる力です。与える、あふれる、包む。慈悲と呼ばれます。左の柱は、締める力です。区切る、断つ、かたちを与える。峻厳と呼ばれます。
どちらも欠かせません。ひろがる力だけなら、世界はかたちを持てずに散ってしまう。締める力だけなら、何ひとつ育たない。
そして真ん中に、三本目の柱があります。両方を通ったものだけが立てる場所です。
アリスは、右へ振れ、左へ振れています。九フィートと、十インチ。まだ真ん中を知りません。
ふくらんだり、しぼんだりする自分
心のほうにも、同じ振れ幅があります。
うまくいっているとき、人は自分を実物より大きく見積もります。何でもできる気がして、声も大きくなる。そして何かにつまずいた瞬間、今度は実物よりずっと小さくなる。自分には何の値打ちもない、という気持ちのほうへ、一息に落ちる。
どちらも、正しい寸法ではありません。膨らんだ自分と、しぼんだ自分は、同じ一日のうちに入れかわります。
ユングは、この振れ幅から抜ける道は、片方を捨てることではないと考えました。両方を自分のものとして知っていること。そのうえで、真ん中に立つこと。
アリスがこのあと学ぶのも、まさにそれです。彼女は最後まで伸び縮みを続けますが、やがて自分でその大きさを調節できるようになる。翻弄される側から、使いこなす側へ。
毒と書いてないか、確かめる
飲む前に、アリスがしたことを見てください。
彼女はラベルを確かめます。「毒」と書いてないかどうか。
この一段落は、物語のなかでもとくに可笑しいところです。焼けたり食べられたりした子どもたちの話をいくつも読んできて、アリスはそこから一般則を取り出している。「毒」と書かれた瓶から飲みすぎれば、遅かれ早かれ、体にさわる。
いくつもの事例から、規則を導く。数学と論理を教えていた人の書き方です。
けれど、その規則は用心深いようでいて、穴だらけです。ラベルさえ確かめれば安全だ、ということになっている。瓶の中身は、一度も確かめていません。
そして案の定、毒とは書かれていない液体が、彼女を十インチにしてしまいます。
異界のものを、口にする
ところで、彼女がしていることは、古い物語では、いちばんやってはいけないことです。
MEMO
ギリシャ神話のペルセポネは、冥界で柘榴の実を数粒食べたせいで、一年の半分を地下で過ごすことになりました。日本にも、黄泉のかまどで炊いたものを口にすると帰れなくなる、という言い伝えがあります。妖精の国でも、出されたものに手をつけてはいけないことになっていました。
アリスが、この世界に着いて最初にしたのが、飲むことと食べることでした。しかも彼女は、瓶に「毒」と書いてないかを確かめただけで、中身は確かめていません。
それでも、彼女は帰ってきます。
この物語は、その禁を破った者を、罰しません。
望遠鏡と、蝋燭
縮んでいくときの感じを、アリスはこう言います。望遠鏡みたいに縮んでいくみたい、と。
筒が筒のなかに入っていく。あの畳まれ方です。彼女は同じ言葉を、伸びるときにも使います。
そして、縮みながら、こんなことを心配します。このまま縮みつづけたら、蝋燭の火が消えたあとの炎みたいに、すっかり消えてしまうのではないかしら、と。
そして、消えたあとの炎はどんな姿だったかしら、と考えこむ。そんなものは見たことがないから、と。
限りなく小さくしていったら、最後に何が残るのか。数学者が一生かけて考えるような問いを、十インチの子どもが、広間のまんなかで、ひとりごとにしています。
へんてこりんが、へんてこりんきわまる
大きくなったとき、アリスの口から出た言葉です。
英語として、これは正しくありません。長い形容詞は、そんなふうには比較級にしないからです。
そして、こう続きます。あんまり驚いたので、しばらく正しい言葉づかいを忘れてしまった、と。
ここでも、体が伸びるのと同時に、言葉が伸びています。寸法が狂うと、文法も狂う。
落ちていくとき、cats と bats が入れかわりました。今度は、単語そのものが引き伸ばされている。
そして、泣く
九フィートになったアリスは、小さな扉を見おろして、泣きだします。
大きくなったのに、いや、大きくなったからこそ、行けなくなった。
この涙が、次の場面の材料になります。彼女は自分の流した涙で、池をひとつ作ってしまう。そしてまた小さくなって、その池に落ちる。
自分の泣いたものの中で、自分が溺れかける。
- 外側
- 拡張と収縮
- 内側
- 自己像の膨張と萎縮
大きくなっても、小さくなっても、庭は同じところにある