白い兎

『不思議の国のアリス』を、夢の側から読んでいきます。ユング心理学と、神話と、カバラを少し。

懐中時計を見る白い兎(ジョン・テニエル)
John Tenniel, 1865

ALICE

そこへ、ピンクの目をした白い兎が、すぐそばを走っていきました。

それ自体は、べつに珍しいことではありません。兎が「ああ困った、遅れてしまう」とひとりごとを言うのを聞いても、アリスはそれほどおかしいとは思いませんでした。あとになって考えてみると、これは不思議に思うべきだったと気づくのですが、そのときは、ごく当たり前のことのように感じられたのです。

けれども、兎がチョッキのポケットから懐中時計を取り出して、それを見て、また急いで駆けだしたとき、アリスは跳ね起きました。チョッキのポケットを持った兎も、そこから出てくる時計も、いままで一度も見たことがない、と思い当たったからです。

そして、燃えるような好奇心にかられて、野原を走って追いかけ、生垣の下の大きな穴に兎が飛び込むのを、ちょうど見届けました。

喋る兎では、立ち上がらなかった

不思議なのは、兎が喋ったことではありません。

喋る兎を見ても、アリスは座ったままでした。あとから考えれば驚くべきことなのに、そのときは当たり前に感じた──キャロルはそこに、わざわざ括弧をつけて断りを入れています。

これは夢の中で、私たちがいつもしていることです。

亡くなった人が普通に台所にいる。知らない家なのに自分の家ということになっている。夢のなかでは、それを誰も疑いません。目が覚めてから、はじめて驚く。

キャロルはこの物語の最初の場面で、夢の中の意識のふるまいを、ほとんど教科書のように書いています。おかしなことは、起きた瞬間には、おかしくない。


アリスを立たせたのは、時計

では、何が彼女を跳ね起こしたのか。

チョッキのポケットです。そして、そこから出てきた懐中時計です。

兎の側の不思議ではありません。こちら側のものが、あるべきでない手に握られていた。ヴィクトリア朝の紳士が持っているはずの鎖つきの時計を、野原の兎が握って、覗きこんでいる。

アリスが見たことがないのは、喋る兎ではなく、時計を持った兎でした。彼女の頭が引っかかったのは、あくまで日常の道具の置き場所です。

合図というのは、たいていそういう形をしています。天が裂けるわけでも、声が降ってくるわけでもない。いつもの風景のなかで、ひとつだけ辻褄が合わない。見なかったことにもできる程度の、小さなずれ。


合図は、説明をしない

兎は立ち止まりませんでした。

アリスに事情を話したり、こちらへおいでと誘ったりもしない。ただ、遅れる、と言って、行ってしまう。

神話のなかで、人が別の世界へ行くときも、たいていこうです。案内役は現れますが、行き先も、理由も、帰り方も告げません。ついていくかどうかは、その場で決めることになる。

説明を待っていると、間に合わない。合図は、追いかけられてから、はじめて意味を持ちます。

MEMO

中世ウェールズやアイルランドの古い物語では、狩りの途中で白い獣が現れると、追った者はそのまま異界へ入ります。白い鹿、白い猪、白い犬。兎も、月の獣として、あちらとこちらを行き来するものでした。


誰にも命じられていない

ここが、この場面のいちばん大事なところだと思います。

アリスは呼ばれていません。兎は彼女に気づいてすらいない。命令も、招待も、義務もない。

前の章で、彼女は何ひとつ選んでいませんでした。ひなぎくの花輪を作るのは楽しいけれど、起き上がって摘みにいくだけの値打ちがあるかしら。そう考えて、座ったままだった。

その同じ子が、今度は立ち上がります。しかも走る。

そのときの彼女は、燃えるような好奇心にかられて走りだしています。恐れでも、使命感でもありません。知りたい、というだけの力で、体が動いている。

花を摘みにいく気にはならなかった子が、野原を全速力で走る。動かす力の種類が変わったのではなく、向けられた先が変わっただけです。


呼びにくる者が、時間に追われている

兎が握っていたのが時計だった、というのは、あとの章を思うと少し不穏です。

この物語では、これから時間がおかしくなります。六時のまま止まった茶卓があり、時間と喧嘩したせいで先へ進めなくなった一団がいて、いつまでもお茶の時間が続く。

その世界の入口に立っていたのが、遅れる、遅れる、と言いながら走っていく兎でした。

これから時間の外へ連れていく者が、誰よりも時間に追われている。しかも彼はこのあと何度も現れますが、最後まで、一度も間に合いません。

間に合っている人は、たぶん、誰かを呼びにきません。


ちょうど、見届けた

アリスは走って、兎が生垣の下の大きな穴に飛び込むのを、ちょうど見届けます。

ちょうど、というのが大事なところです。少しでも遅れていたら、穴の場所はわからなかった。生垣の下には、いつも通り、影があるだけだったはずです。

穴は、追いかけたから見えました。座ったままなら、そこには何もありませんでした。

あとから振り返ると、人生の分かれ目は「あのとき決めた」ように見えます。けれど実際に起きたのは、たいてい、もっと小さなことです。気になって、立ち上がった。それだけ。

追いかけたから、そこに穴があった

外側
呼び声
内側
無意識からの最初の合図

つぎの話