ALICE
そこへ、ピンクの目をした白い兎が、すぐそばを走っていきました。
それ自体は、べつに珍しいことではありません。兎が「ああ困った、遅れてしまう」とひとりごとを言うのを聞いても、アリスはそれほどおかしいとは思いませんでした。あとになって考えてみると、これは不思議に思うべきだったと気づくのですが、そのときは、ごく当たり前のことのように感じられたのです。
けれども、兎がチョッキのポケットから懐中時計を取り出して、それを見て、また急いで駆けだしたとき、アリスは跳ね起きました。チョッキのポケットを持った兎も、そこから出てくる時計も、いままで一度も見たことがない、と思い当たったからです。
そして、燃えるような好奇心にかられて、野原を走って追いかけ、生垣の下の大きな穴に兎が飛び込むのを、ちょうど見届けました。
喋る兎では、立ち上がらなかった
不思議なのは、兎が喋ったことではありません。
喋る兎を見ても、アリスは座ったままでした。あとから考えれば驚くべきことなのに、そのときは当たり前に感じた──キャロルはそこに、わざわざ括弧をつけて断りを入れています。
これは夢の中で、私たちがいつもしていることです。
亡くなった人が普通に台所にいる。知らない家なのに自分の家ということになっている。夢のなかでは、それを誰も疑いません。目が覚めてから、はじめて驚く。
キャロルはこの物語の最初の場面で、夢の中の意識のふるまいを、ほとんど教科書のように書いています。おかしなことは、起きた瞬間には、おかしくない。
アリスを立たせたのは、時計
では、何が彼女を跳ね起こしたのか。
チョッキのポケットです。そして、そこから出てきた懐中時計です。
兎の側の不思議ではありません。こちら側のものが、あるべきでない手に握られていた。ヴィクトリア朝の紳士が持っているはずの鎖つきの時計を、野原の兎が握って、覗きこんでいる。
アリスが見たことがないのは、喋る兎ではなく、時計を持った兎でした。彼女の頭が引っかかったのは、あくまで日常の道具の置き場所です。
合図というのは、たいていそういう形をしています。天が裂けるわけでも、声が降ってくるわけでもない。いつもの風景のなかで、ひとつだけ辻褄が合わない。見なかったことにもできる程度の、小さなずれ。
合図は、説明をしない
兎は立ち止まりませんでした。
アリスに事情を話したり、こちらへおいでと誘ったりもしない。ただ、遅れる、と言って、行ってしまう。
神話のなかで、人が別の世界へ行くときも、たいていこうです。案内役は現れますが、行き先も、理由も、帰り方も告げません。ついていくかどうかは、その場で決めることになる。
説明を待っていると、間に合わない。合図は、追いかけられてから、はじめて意味を持ちます。
MEMO
中世ウェールズやアイルランドの古い物語では、狩りの途中で白い獣が現れると、追った者はそのまま異界へ入ります。白い鹿、白い猪、白い犬。兎も、月の獣として、あちらとこちらを行き来するものでした。
誰にも命じられていない
ここが、この場面のいちばん大事なところだと思います。
アリスは呼ばれていません。兎は彼女に気づいてすらいない。命令も、招待も、義務もない。
前の章で、彼女は何ひとつ選んでいませんでした。ひなぎくの花輪を作るのは楽しいけれど、起き上がって摘みにいくだけの値打ちがあるかしら。そう考えて、座ったままだった。
その同じ子が、今度は立ち上がります。しかも走る。
そのときの彼女は、燃えるような好奇心にかられて走りだしています。恐れでも、使命感でもありません。知りたい、というだけの力で、体が動いている。
花を摘みにいく気にはならなかった子が、野原を全速力で走る。動かす力の種類が変わったのではなく、向けられた先が変わっただけです。
呼びにくる者が、時間に追われている
兎が握っていたのが時計だった、というのは、あとの章を思うと少し不穏です。
この物語では、これから時間がおかしくなります。六時のまま止まった茶卓があり、時間と喧嘩したせいで先へ進めなくなった一団がいて、いつまでもお茶の時間が続く。
その世界の入口に立っていたのが、遅れる、遅れる、と言いながら走っていく兎でした。
これから時間の外へ連れていく者が、誰よりも時間に追われている。しかも彼はこのあと何度も現れますが、最後まで、一度も間に合いません。
間に合っている人は、たぶん、誰かを呼びにきません。
ちょうど、見届けた
アリスは走って、兎が生垣の下の大きな穴に飛び込むのを、ちょうど見届けます。
ちょうど、というのが大事なところです。少しでも遅れていたら、穴の場所はわからなかった。生垣の下には、いつも通り、影があるだけだったはずです。
穴は、追いかけたから見えました。座ったままなら、そこには何もありませんでした。
あとから振り返ると、人生の分かれ目は「あのとき決めた」ように見えます。けれど実際に起きたのは、たいてい、もっと小さなことです。気になって、立ち上がった。それだけ。
追いかけたから、そこに穴があった
- 外側
- 呼び声
- 内側
- 無意識からの最初の合図