ALICE
アリスは土手の上で、姉のとなりに座って、何もすることがなくて、だんだん飽きてきていました。一、二度、姉の読んでいる本をのぞいてみましたが、絵も会話もありません。それで、アリスは思ったのです。
絵も会話もない本なんて、いったい何の役に立つのかしら。
そこで、頭のなかで考えていました。暑さで眠くて、ぼんやりしていたので、うまくは考えられなかったのですが──ひなぎくの花輪を作るのは楽しいけれど、そのために起き上がって花を摘みにいくだけの値打ちがあるかしら、と。
そこへ突然、ピンクの目をした白い兎が、すぐそばを走っていきました。
何も起きていない、という内容
物語はここから始まります。何も起きていません。
そして、何も起きていない、ということが、この場面の内容です。
ふつう、物語の書き手は最初の一段落で読者をつかもうとします。事件を起こすか、謎を出すか、誰かを走らせるか。キャロルはそのどれもしません。子どもを土手に座らせて、退屈させたまま置いておく。
これは手ぬるいのではなく、この物語がどこから始まるかについての宣言です。何かが起きたから始まるのではない。何も起きていないから、始まる。
絵も会話もない本
アリスが姉の本から顔を離した理由は、はっきり書かれています。絵がない。会話がない。
この二つは、なんとなく並べられているのではないと思います。
絵とは、目に見える形のこと。会話とは、誰かとのあいだに起きることです。かたちと、関係。アリスが本に求めたのは、知識でも筋書きでもなく、その二つでした。
そして、これから彼女が落ちていく世界は、まさにその二つでできています。ものが次々に姿を変え、動物たちがひっきりなしに話しかけてくる世界。
足りないものとして書かれたはずのものが、そのまま次の世界の材料になっている。最初の一段落で、行き先がすでに告げられています。
受け取るだけの段
カバラという古いユダヤの神秘思想に、生命の樹という図があります。世界がどんな段でできているかを、十の段と、それをつなぐ道で描いたものです。
そのいちばん下の段を、王国(マルクト)と呼びます。
名前は立派ですが、この段には自分のものが何ひとつありません。上から降りてきたものを受け取るだけの器で、自分では何も生まない。光を作らず、映すだけ。
古い書き手たちは、この器を娘にたとえ、花嫁にたとえました。受け取る側は、いつも誰かの下にいて、誰かを待っている。
土手の上のアリスは、その器の中にいます。姉がいて、本があって、暑さがあって、それらは全部、外から来ている。彼女はまだ、何ひとつ選んでいません。
ひなぎくの花輪
そして、この日いちばん最初にアリスの頭に浮かんだ考えが、これです。
ひなぎくの花輪を作るのは楽しいけれど、そのために起き上がって花を摘みにいくだけの値打ちがあるかしら。
花はそこにあります。手を伸ばせば届く。それでもアリスは、作る楽しみと、摘みにいく面倒を天秤にかけて、動きません。
ひなぎくの花輪は、輪です。茎に切れ目を入れて、次の花を通して、端と端をつないで閉じる。子どもが最初におぼえる、いちばん簡単な創造です。
受け取るだけの器は、受け取ることさえ、自分で選ばなければ起きない。手を伸ばさないかぎり、花は花のまま、そこにあるだけです。
この午後、アリスは輪を作りませんでした。そのかわりに、まもなく円い穴に落ちます。作らなかった輪のかたちをした穴に、落ちていく。
着ているものは、顔
アリスがそこで着ているものは、服だけではありません。
娘であること。妹であること。行儀よく座っていること。退屈だと感じても、立ち上がらないこと。
そういう顔を、仮面(ペルソナ)と呼んだ人がいました。もとは、舞台で役者がつけた面の名前です。
仮面は悪いものではありません。それがなければ、誰も外を歩けない。仕事の場でつける面、家でつける面、久しぶりの人に会うときの面。つけかえられるうちは、健康です。
やっかいなのは、面が顔に貼りついてしまったときです。まわりが困るというより、本人が困る。自分が何を欲しがっているのかが、だんだんわからなくなる。
そして、仮面だけで一日が過ぎていくとき、人はだんだん眠くなります。
眠くなる、ということ
心理学に、意識水準の低下という言い方があります。
ぼんやりして、注意が散って、ものごとの輪郭がゆるむ状態のこと。疲れているとき、単調なとき、暑いとき、退屈なときに起こります。
この状態は、悪いものとは考えられていません。むしろ逆で、意識の見張りがゆるむと、ふだん下に沈んでいるものが上がってきやすくなる。夢を見るのも、ふいに何かがひらめくのも、たいていこの水準です。
暑さで眠くて、ぼんやりしていたので、うまくは考えられなかったのですが。
うまく考えられないことが、この場面では必要でした。きちんと目が覚めて、しゃんとしていたら、たぶんあの兎は通らなかった。通っても、見えなかった。
眠いのは、退屈だからではないのかもしれません。何かがもう、こちらを向いているのに、まだ気づいていないから、かもしれない。
予定のない午後
大人になってから、こういう午後が減ります。
暑くて、何もすることがなくて、ただ座っている時間。予定のない時間は落ち着かないので、埋めてしまう。埋まっていると安心します。
けれど、安心しているあいだ、何も落ちてきません。
アリスが白い兎を見つけられたのは、退屈していたからです。この物語は、その一点から動きはじめます。
あの日も、そういう時間でした。
都心の、地の底に近い部屋。何も持たずに横になって、これから何が起きるのかを知らないまま、ただ待っている。予定のない時間でした。
あとになって思えば、あそこで始まっていたのだと思います。まだ何も起きていない、というその状態から。
この物語には、印刷される前の姿があります。
一八六四年、キャロルが手書きで一冊だけ作って、アリス・リデルという少女に贈った本。表紙に書かれた題は、『地下の国のアリス』でした。
挿絵も本人が描いています。三十七枚。上の、姉とアリスの素描も、その一枚です。
ここに写した頁を見ると、ある一行にだけ、キャロル自身の手で線が引かれています。兎がチョッキのポケットから懐中時計を取り出した、というところ。
書いた人が、どこが分かれ目だと思っていたか。それがそのまま残っています。
空の器だけが、注がれることを許される
- 外側
- まだ何も始まっていない世界
- 内側
- ペルソナだけで生きている状態