姉の膝の上で

『不思議の国のアリス』を、夢の側から読んでいきます。ユング心理学と、神話と、カバラを少し。

顔に降ってきたのは、木の葉でした。

ALICE

気がつくと、アリスは土手に寝ころんで、姉の膝に頭をのせていました。

姉が、そっと顔から払いのけてくれていたのは、木から舞い落ちてきた枯れ葉でした。

「起きなさい、アリス」と姉は言いました。「ずいぶん長いこと眠っていたのよ」

「まあ、へんな夢を見たわ」とアリスは言って、覚えているかぎりのことを、姉に話しました。この長い一日のことを、ぜんぶ。

聞き終わると、姉は妹に口づけをして、こう言いました。

「たしかに、へんな夢だったわね。でも、もうお茶の時間だから、走っておいで。遅くなるわ」

そこでアリスは立ち上がって、駆けていきました。走りながら、なんてすばらしい夢だったのだろう、と思いながら。

ずいぶん、あっさりしています。

あれだけのことがあったのに、姉は、へんな夢だったわね、と言うだけです。そして、お茶の時間だから走っておいで、と。

アリスも、それで走っていきます。


顔に落ちてきたのが枯れ葉だった、というのが、この物語のうまいところだと思います。

あの長い落下の底で、彼女を受けとめたのも、枯れ葉の山でした。小枝と枯れ葉の、やわらかい山。

降りるときも、戻るときも、同じものが待っていました。

そして、その葉を払いのけていたのは、姉の手です。眠っているあいだ、ずっとそこにいた人がいたということが、目が覚めてから分かります。


この場面に、絵はありません。

テニエルは四十二枚の挿絵を彫りましたが、最後の一枚は、舞い上がる札とアリスの絵でした。目が覚めたところには、絵がない。

落ちていく場面にも、絵がありませんでした。

入口と出口だけが、描かれていません。


そのあと、しばらく、姉のことが書かれます。

アリスが駆けていったあとも、姉は土手に座ったままでいました。頬杖をついて、沈んでいく日を見ながら、妹の話した夢のことを考えているうちに、自分でも、その夢を見はじめます。

白い兎が、そばを走っていく。ねずみが、涙の池を泳いでいく。茶碗の音がして、王妃の甲高い声がして、豚になった赤ん坊がくしゃみをする。

けれど、姉には分かっています。

いま目を開ければ、すべてが、つまらない現実に変わってしまうことが。

草がざわめいているだけ。茶碗の音は、羊の首につけた鈴の音。王妃の甲高い叫び声は、羊飼いの少年の声。赤ん坊のくしゃみも、グリフォンの鳴き声も、遠くの牛の声も、農場のいつもの物音にすぎない。

知りながら、姉は目を閉じたままでいます。

ここが、この物語のいちばん静かなところだと思います。

アリスは、信じていました。信じるも何も、その中にいたのですから。

姉のほうは、知っています。それが羊の鈴だと知っていて、それでも、もう少しだけ目を閉じている。

大人になるというのは、たぶん、こういうことです。幻だと分かったうえで、しばらくそこにいられるようになること。


そして、姉はもうひとつのことを思い浮かべます。

この小さな妹が、いつか大人になったところを。

大きくなっても、子どものころのやさしい心をそのまま持っていて、自分の子どもたちをまわりに集めて、話を聞かせている。子どもたちの目が、きらきらしている。

そして、話しているのは、むかし見た、この夢のことです。

この物語は、そこで終わります。


アリスは、あの世界から、何も持ち帰っていません。

庭の花も、金の鍵も、きのこのかけらも、指ぬきさえ。手ぶらで、姉の膝の上に戻ってきます。

MEMO

古い神話では、地下へ降りた者は、たいてい何かを持って帰ります。知恵だったり、失った者だったり、若さの水だったり。持ち帰れずに終わる話も、それはそれで、持ち帰れなかったという事実が残ります。

彼女が持ち帰ったのは、話ひとつです。

そして、その話を聞いた姉が、同じ夢を見はじめました。いつか、アリスの子どもたちも、それを聞くのでしょう。

手ぶらで帰ってきたはずのものが、ひとりからひとりへ、渡っていきます。

この物語を、ひととおり読んで

この十九の話を書いてきて、いちばん驚いたのは、ほとんどの場面が、寸法の話だったということです。

扉は開いているのに、頭さえ通らない。小さくなれば鍵に届かず、大きくなれば扉を通れない。家より大きくなって腕が窓から出てしまい、首だけ伸びて蛇と呼ばれ、三インチはみじめだと言って芋虫を怒らせる。

そして、きのこの両側を両手に持って、少しずつ噛みわけながら、自分の背丈を探すことを覚えます。

正しい大きさは、どこかに用意されていませんでした。行きすぎと戻りすぎを何度も往復した末に、残った場所のことでした。

最後に、あの言葉が出たとき、彼女はちょうど、自分の大きさに立っていました。大きくなって見おろしたのでもなく、小さくなって逃げたのでもなく。

もうひとつ、通っていたものがあります。

器です。

いちばん最初の話で、土手の上のアリスは、上から降りてくるものを受け取るだけの器でした。落ちていく途中で手にしたのは、空っぽのマーマレードの壺。競走のあとにもらったのは、指にはめる、いちばん小さな器。兎の家では、自分が大きくなりすぎて、家という器のほうが先に限界に来ました。

そして最後に、彼女は自分の寸法に戻って、姉の膝に帰ってきます。

手には、何も持っていません。

けれど、話すことがあります。

外側
帰還
内側
知りながら、目を閉じていられる

持ち帰ったのは、話ひとつ

つぎの話